不連続線と絶対の探求〜『匣の中の失楽』について(後篇)

原田忠男

※本論考は、ネタバレを含んでおります。『匣の中の失楽』および『闇に用いる力学[赤
気篇]』を未読の方は、ご注意ください。

『匣の中の失楽』および『闇に用いる力学[赤気篇]』を
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今回使用したテクスト
講談社文庫版 光文社刊



四 『つじつまあわせの構造』解説
 『匣の中の失楽』に登場する曳間了による「記憶におけるくりこみ原則」「記憶における
超多時間原則」の発展形が、『闇に用いる力学[赤気篇]』で登場する日本綜合心理研
究所認知心理学課の倉石恭平の唱える『つじつまあわせの構造』および<命題のトポロ
ジー的連環モデル>ではないか、という仮説をもとに、『つじつまあわせの構造』および
<命題のトポロジー的連環モデル>の中身を検証していこう。
 ただし、『闇に用いる力学[赤気篇]』においても、『つじつまあわせの構造』および<命
題のトポロジー的連環モデル>を倉石恭平から直接レクチャーを受けることはできな
い。倉石恭平の研究には、なんらかの圧力がかかり、監視の眼がつくようになる。われ
われが知ることができるのは、(1)倉石と同僚の茎田諒次の会話と、(2)倉石の影響で
監視がついた茎田が、監視から逃亡する過程で、海老原夏樹とミューに倉石の研究内
容を語ることからだけである。
 まず、(1)倉石と同僚の茎田諒次の会話からは、『つじつまあわせの構造』および<命
題のトポロジー的連環モデル>が、「要素還元主義」から外れていることと、「実証的で
ない」ことがわかる。(P168)
 要素還元主義でないということは、部分に実体を求めるアトミズムでないということであ
る。反・要素還元主義ということから、『つじつまあわせの構造』および<命題のトポロジ
ー的連環モデル>は、全体に実体を求めるホーリズム的立場であるか、諸関係のネット
ワークで事象を捉える構造主義的立場であるということになる。倉石の専門である心理
学分野でいえば、前者のホーリズムにはトランスパーソナル心理学が、後者の構造主義
にはピアジェやラカンがいる。前者はオカルトを許容する傾向があり、科学者の自然発
生的哲学に陥っているが、後者には唯物科学に反する曖昧なイデオロギーの余地はな
い。後に示す理由から、倉石の認知心理学は後者に当てはまると推測する。
 次に、(2)茎田が海老原夏樹とミューに倉石の研究内容を語る場面から、倉石が研究
していたのは「人間の精神における情報処理の様式」であり、「情報処理の総体こそが
精神と呼ばれるもの」なのだが、「そういった情報処理がとのような原理に従って行われ
るか」を問おうとしていたことがわかる。(P290)
 倉石が注目した現象は、つじつまあわせということであった。ところで、これは私の読
書体験の偏向のせいなのかも知れないが、竹本健治が『つじつまあわせの構造』という
とき、コリン・ウィルソンのジェラード・ソーム三部作(『暗黒のまつり』・『形而上学者の性
日記』・『迷宮の神』)に出てくる主人公ジェラード・ソームが書いている『自己欺瞞の方法
と技術』を想起してしまう。自己欺瞞への批判は、実存主義者ジャン=ポール・サルトル
の『存在と無』にすでにみられるので、新実存主義者のコリン・ウィルソンは、これを継承
したのだと考えるが、要するに自分自身に嘘をつき、非本来的な生き方をすることへの
批判が、この中に込められている。つじつまあわせというのも、自己欺瞞の一種である
から、『つじつまあわせの構造』も『自己欺瞞の方法と技術』と同じ方向性を持った論文
ではないか、と夢想する。
 しかしながら、『つじつまあわせの構造』と『自己欺瞞の方法と技術』の理論的差異も、
明白に存在する。『自己欺瞞の方法と技術』は、(オプチミスティックな)実存主義からの
自己欺瞞の批判である。これに対して、『つじつまあわせの構造』は、人間の精神を情報
処理の総体として捉え、関係のネットワークで人間のよって立つところの体系を把握しよ
うとする。『つじつまあわせの構造』は、実体主義と完全に手を切っている。
 『つじつまあわせの構造』が、構造主義的なアプローチに拠っているという根拠を示そ
う。「母親との緊密な接触のなかからどう対処すればより快適な情況を得られるかを赤
ん坊が学び取るようにー、あるいは執拗に関連づけされて示されるうちに物事と言葉と
の秩序立った体系が体得されるようにー、そして<ごっこ>の繰り返しのなかで子供が
自分の社会的役割を実験的に確認してゆくようにー、情報処理系の同一性はつじつまあ
わせの反復によって検証され、補強され、整備されたものになってゆくんだよ。」(P29
4)この文章のなかに、モーリス・メルロ=ポンティ『幼児の対人関係』における幼児の身
体意識と他者の知覚の発達過程の説、ジャック・ラカン『エクリ』の主体の形成に関する
鏡像段階説、ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力』のアブジェクシオン理論、ジークムン
ト・フロイト『快感原則の彼岸』のFort/Da の遊びに関する理論の匂いを嗅ぎ取ること
ができる。
 構造主義的な精神分析学では、主体ははじめからあるのでなく、それは形成されると
考えるのが特徴である。たとえば、ラカンは人間の主体は、鏡像段階を経て、幼児期に
形成される。鏡の中に映った自分あるいは他者の反応を通じて、子供は自分自身の自
己同一性を形成するというのである。また、クリステヴァは、当初、子供は母親との緊密
な関係を持っているが、主体が形成されるためには、母親をアブジェクト(おぞましいも
の)として自らと引き離すことも必要であると考えた。
 『つじつまあわせの構造』は、関係主義的であるだけでなく、主体をはじめからあるの
でなく、形成されるものとする点で、構造主義的である。(実存主義ならば、主体がまず
あり、そこから本質を選び取ってゆくスタンツになる。)
 さらに「情報が本来的に持つ矛盾性の大きな要因は…(中略)…<言葉>と<意味内
容>との関係の曖昧性にある」(P269)という記述があるが、この場合、<言葉>とは
構造主義的言語学で用いるシニフィアンのことであり、<意味内容>はシニフィエのこと
であることは明白であろう。そして、構造主義的精神分析学は、ソシュールの構造主義
的言語学に基礎を置いているのである。
 また、「我々の自己同一性が決して静的なものではあり得ない」(P297)という記述や
「自己同一性の強度は矛盾情報をつじつまあわせすることによってのみ立ちあらわれて
くるのであって、そうなると両者は単純な対立関係にあるのではなく、極めてダイナミック
な、相互依存的な関係にあることがわかるだろう。」(P297〜298)という記述から、
『つじつまあわせの構造』は、より正確にいえば、ポスト構造主義的な生成論や自己組織
化理論であると判断できる。補足をすると、自己同一性を静的(スタティック)に捉えるの
が構造主義である。また、強度(アンタンシテ)という言葉は、ドゥルーズ=ガタリで頻出
するテクニカル・タームである。また、自己同一性と矛盾情報を対立関係で捉える立場
は、構造とその外部の、言い換えればコスモスとカオスの弁証法的相互作用で、構造の
動的変動を説明する立場だが、『つじつまあわせの構造』はそれですらないといってい
る。バタイユの普遍経済学を「構造とその外部の弁証法」であるとして、かつて浅田彰は
『構造と力』で批判したことがあり、これはバタイユ支持者(栗本慎一郎・笠井潔ら)を射
程に置いたものだったことを想起するなら、このコメントの重要性がわかるだろう。さら
に、極めてダイナミックで、相互依存的な関係ということから、『つじつまあわせの構造』
は自己同一性と矛盾情報をまとめて、一気に装置なり、機械なりで捉える後期フーコー
やドゥルーズ=ガタリに近いことがわかる。
 茎田の説明する倉石の『つじつまあわせの構造』は、「情報処理のために好ましく情報
処理」(P290)するという法則が、人間の精神に見出されるとする。例えば、同じモノで
あることがすぐに認識されるために、<大きさの恒常性>(P291)がみられるが、これ
は意識下の情報処理によるものとされる。この情報処理は、<最小情報量の原則>(P
291)に従う。個々の特殊な事象を説明する際に、それに近い一般的な例から説明する
が、これも<最小情報量の原則>(P291)である。
 さらに、「新たな情報を次々と無理なく既成の<情報ネットワーク>のなかに組み入れ
ることができさえすれば、系全体のほうでもそれ自身の同一性・普遍性を強化するため
に、どんどん新たな情報をとりこもうとするだろう。」(P292)ということをいっているが、
このあたりの記述はかなり構造主義的である。<情報ネットワーク>を、科学的な認識
のためのモデルとして捉えても、哲学理論における体系と捉えてもいいだろう。この記述
から、ホーリズム的という仮説は却下され、構造主義的という仮説が正しいということが
わかる。そのあと、茎田は「情報の同一化・普遍化の機能を…(中略)…その自己目的
性を強調して<つじつまあわせ>」であるといっている。これは、<情報ネットワーク>
のシステムの安定性を上げ、強化するための方法が、<つじつまあわせ>であるという
ことである。
 思考の体系は、その同一性を強化するために、体系の例証となる情報を必要とする。
問題となるのは<量の原則>と<質の原則>(ともにP293)であり、数多い例証と、よ
り質の高い決定的な例証により、より体系が強化される。
 ところが、精神に取り込まれる情報の中には、いままでの思考の体系に矛盾する情報
が含まれる。このような<矛盾情報>(P294)は、「系自身の同一性の正当性を揺るが
し、円滑な機能を混乱に陥れ、系全体に多大な歪曲を及ぼす」(P294)ので、つじつま
あわせがなされることになる。「情報を否定したり…(中略)…情報の意味をすり替えたり
…(中略)…相手の言葉を受け入れる心の広さ」(P295)を示したり、もっと重大な<矛
盾情報>(P294)の場合、「情報ネットワークの大幅な編みなおし」(P295)に発展す
ることもありえる。

 『闇に用いる力学[赤気篇]』をもとに、『つじつまあわせの構造』および<命題のトポロ
ジー的連環モデル>の素描を試みてきたが、いくつかの具体的事例について考えてみ
よう。

(a)「情報ネットワークの大幅な編みなおし」(P295)に発展するような重大な<矛盾情
報>(P294)の例として、革命の観念を抱く者が、その論理的帰結としてのテロリズム
や収容所群島の実態に直面した場合が考えられる。この場合、元の革命の観念を葬送
して転向を図る者もいれば、未来への革命の切符を握り締めたままで、部分的な理論修
正を行うものもいるだろう。いずれにせよ、その個人の精神の中で<無矛盾の原則>
(P295)がなされる必要がある。
 また、ニュートン力学で説明できない現象に直面して、アインシュタインの相対性理論
へ、さらにはボーアの相補性理論に、パラダイム・シフトしてゆくのも、「情報ネットワーク
の大幅な編みなおし」(P295)の例である。

(b)「矛盾情報のうち、我々にとって最も究極的なものは<死>という観念といえる…
(中略)…なぜかといえば、それが<自己同一性>の無化を意味する情報だからであ
り、しかもそれは全く不可避に訪れるものであるにもかかわらず、決して体験できないも
のなのだから」(P297)という記述は、トルストイの『イワン・イリッチの死』、キルケゴー
ルやハイデッガーの哲学を想起させる。
 『イワン・イリッチの死』は、平凡な日常生活を過ごしていた男が、あるとき自分が余命
わずかであることを知り、漫然と過ごしてきた過去を反省し、苦悩する話である。
 キルケゴールは、その単独者思考により、実存哲学の祖となった人物であり、「私がそ
のために生き、そのために死ねるイデー」を見出そうとした。 『闇に用いる力学[赤気
篇]』では、このイデーのことを<原器>(P297)と名づけている。
 ハイデッガーは、現象学的なアプローチで存在論を構築した人で、<死>を最も高次
の法廷と呼び、<死>を前に日常性に埋没していた現存在が、自らの本来性に覚醒す
ると考えた。

(c)最後に「つじつまあわせを特定の方向に誘導する技術」(P299)であり、「マインド・
コントロール」(P299)があげられる。これは 『闇に用いる力学[赤気篇]』が、『つじつ
まあわせの構造』という心理学的原理応用の犯罪を描いていることを示唆している。心
理学的原理応用の犯罪であるということは、夢野久作の『ドグラ・マグラ』を連想させる。
 ここで、竹本健治は「マインド・コントロール」(P299)の基本となる原理を示す。すな
わち、<原器損壊装置>と<命題美化装置>(P300)である。前者は「対象となる人間
の原器を突き崩すための機能」であり、後者は「新たな原器のかたちを指し示す機能」
(P300)である。
 たとえばティモシー・リアリーが『神経政治学』で、例に挙げているパティー・ハースト事
件の場合、銀行頭取の娘がゲリラに誘拐され、洗脳され、やがてゲリラとともに銀行強
盗になったわけだが、これは典型的なストックフォルム症候群である。
 ティモシー・リアリーは、学習によって新しい人格に再刷り込みするためには、前の人
格を消去する必要があるといっている。 
 <原器損壊装置>としては、長時間暗室に入れ、外部からの感覚を遮断する、暴力で
蹂躙する、さらには(これはパティー・ハーストには使われなかったようだが)薬物で頭脳
を漂白するなどがあげられる。
 <命題美化装置>は、被害者にそれによらずには生きられないような条件下で、新し
い価値観を与えるということである。
 倉石の『つじつまあわせの構造』によれば、マインド・コントロールを完全にするため
に、<他人から与えられ>(P301)た情報であるということを、隠蔽すればいい。
 ここで、私見を述べれば、あらゆる体系には、体系がそれによって立つ根拠があり、そ
の根拠の根拠を問うことを禁止する必要がある(自己言及のパラドックスの回避のため
のロジカル・タイプ=論理階梯の混合の禁止)。これにより、マインド・コントロールは、よ
り完璧なものになるはずである。


伍 再び<不連続線>の方へ
 「なぜ、こうも世界というものは連続しているのか。…(中略)…彼は、田舎から尋ねてく
る叔父に、よく、『おじさんは、いなかからずうーっと、ここまで来たの?』という質問をし
たものだった。叔父は、しばしば繰り返されるこの質問の意味がよく呑みこめずに、ただ
『ああ、そうだよ』と答えるばかりだった。」(『匣の中の失楽』講談社文庫版P10〜11)
 『ああ、そうだよ』という叔父のことばに異和を感じるとすれば、曳間の方は『おじさん
は、いなかからずうーっと、ここまで来たのではない』と考えているのだろう。
 曳間の時間概念は、デジタルで、過去から現在まで持続的に連続しているのではな
い。
  デジタルな時間概念ということは、少し前の自分と<いま、ここ>を生きる自分の間に
差延が入っていることを意味する。そして、この少し前の自分と<いま、ここ>を生きる
自分の間のズレは、対自存在という人間存在の在りように起因している。
 対自存在と即自存在は、ジャン=ポール・サルトルが『存在と無』で提出した概念であ
る。サルトルは「即自存在は、それが有るところのものである。」といい、「対自存在は、
それが有るところのものではなく、それが無いところのものである。」 といった。前者は
物のあり方を示し、後者は人間のあり方を示している。この少し前の自分と<いま、ここ
>を生きる自分の間のズレは、対自存在としての人間存在は、現在を自身を乗り越え、
未来の自己を創出すべく投企(projet)するためである。
 『匣の中の失楽』には、埴谷雄高の『死霊』や『闇のなかの黒い馬』といった黒い水脈
が流れ込んでいるから、当然埴谷雄高の<自同律の不快>という概念も引き継いでい
ると考えられる。<自同律の不快>とは、「それが有るところのものである」ことへの不
快を意味する。そこには、自己が「それが有るところのものである」状態を、意識によっ
て無化しようとする企てがみられる。
 つまり、曳間の学問(認知心理学)の中には、埴谷の<自同律の不快>というコンセプ
トが埋め込まれていると推測される。
 そして、曳間は叔父(を初めとして、人間たち)は、本当は時間は、デジタルで、過去か
ら現在まで持続的に連続しているのではないはずなのに、<つじつまあわせ>を行い、
あたかも時間が、アナログで、過去から現在まで持続的に連続しているかのような欺瞞
が覆っていることに、異和を感じていた。
 「記憶におけるくりこみ原則」と「記憶における超多時間原則」に関する作品中のヒント
は、これが「記憶錯誤(パラムネジー)」(講談社文庫版、P418)に関する論文であると
いうことだけだ。「記憶錯誤(パラムネジー)」ということから、この二論文が、フロイトの
『日常生活に於ける精神病理』の延長線上にある論文ではないかと推測される。つまり、
無意識下での<記憶>の改ざん・変形に関する論文ではないか、ということである。以
下は、この推測の発展形である。
 叔父(を初めとして、人間たち)が行っている<つじつまあわせ>は、「記憶におけるく
りこみ原則」をもとにしている。叔父(を初めとして、人間たち)といえども、現在から未来
に向かうときには、時間が不連続で、持続しているわけではないということを知っている
はずなのに、現在から過去の<記憶>を振り返るとき、時間の流れの欠落した部分に、
嘘をくりこみ、あたかも過去から現在に向かって、連続的に、時の流れが持続している
かのように<記憶>を塗り替えるのである。<記憶>とは、情報の<記録>であり、こ
こにイカサマの情報が挿入されているということである。そして、個人のアイデンティテイ
ーというものが、個人の<記憶>によって形成されているとするならば、叔父(を初めと
して、人間たち)は、まやかしのアイデンティテイーでしかないことを意味する。
 <記憶>がこのように捏造されたものであるのなら、個人の<記憶>は、個人が生き
た時間=歴史より長いに違いない。「記憶における超多時間原則」とは、個人の記憶
に、ダミーの時間情報が入っているせいで、実際の生きた時間よりも多いということでは
ないか。
 「不連続線」をめぐって、理論構築をし、さらには実験に至る曳間の願望は、不条理な
満たされることのない願望である。これは<絶対の探求>と呼んでもいいだろう。次々と
相対化を仕掛けてくる竹本作品の中で、実は<絶対の探求>(バルザック)ともいえる不
条理な願望が響き渡っている。曳間の「不条理線」をめぐる探求が、第一の主題であ
る。さらには密室の突破をめぐるさまざまな仮説の中で、「1のあとに0が10の24乗くっ
ついた回数壁にぶつかってゆけば、そのうち1回だけは(トンネル効果で)通り抜けられ
る」(講談社文庫版、P176)と影山が語る場面や、曳間の姉が「尖ったものを上向きに
して、そこにビー玉やピンポン玉を乗せようとする」(講談社文庫版、P313)にも、<絶
対の探求>ということを感じさせる。つまり、次々と相対化を仕掛けてくる竹本マジック
は、あまりにも巨大すぎる<絶対の探求>がもたらしたものである可能性が強い。『匣
の中の失楽』の登場人物たちは、アルベール・カミュの戯曲に登場する月と不死を手に
入れるために大虐殺を行う皇帝カリギュラの兄弟なのである。
 曳間は催眠術を仕掛ける。人間たちを告発するために。あるいは人間たちを実験する
ために。彼らが<つじつまあわせ>をするのならば、連続殺人は起こるだろう。これは
曳間のペシミズムである。曳間は、人間たちが<記憶>の中からダミーのデータを消去
してくれることを願う。それは、ある意味、超人待望論である。不連続な時間の中で、ア
イデンティティーの危機をさらしながら生きることを意味するのだから。だが、そのような
超人は生まれはしない。曳間の賭けは失敗するだろう。かくして、悲劇の幕は上がる。不
連続な密室殺人が、あたかも連続しているかのように。

 (2004.3.20)
(2004.3.28一部加筆)


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